曹植と魚豢(再び承前)

こんばんは。

一昨日述べた、魚豢と曹植とのつながりについて、続きです。

魚豢は、隗禧という儒者から直接教えを受けていますが、
この人物は、『詩経』について、斉・韓・魯・毛の四家の解釈を説いたといいます。*1
(『魏志』巻13・王朗伝の裴松之注に引く『魏略』)

すると、過日示したとおり、魚豢の文章が「韓詩」に拠っていたのは、
もともと彼が特に「韓詩」に造詣が深かったからというよりも、
特に曹植の「求自試表」を強く意識してこその選択であったのかもしれません。
魚豢の文章が、曹植のこの作品から直接影響を受けていることは一昨日述べた通りです。

では、魚豢の思いは曹植のそれとどのような点で交わったのでしょうか。

曹植は、とりわけ明帝期に入ってから、自身を周公旦的存在と位置づけ直し
魏王室の一員として、何らかの働きを為したいという強い意欲を幾度も表明しています。

一方、魚豢は、当時の社会に蔓延する歪んだ人材登用に憤懣を募らせていました。
過日も示した、佞倖を舌鋒鋭く批判する彼の文章には、特にそのことが鮮明に現れ出ています。*2

曹植と魚豢との間に、直接的な接点はありません。
けれども、その心中には非常に近しいものがあったと言えます。
曹植の「利器を抱きて施す所無き」を「常に自ら憤怨」する(『魏志』巻19・陳思王植伝)状態は、
そのまま、魚豢が日頃抱いている憤懣と重なり合うものだったに違いありません。
だからこそ彼は、自身の思想的文脈とは異なるものの、
曹植「求自試表」の一節に強く惹きつけられ、これを踏襲したのでしょう。

2020年11月21日

*1 このことも、清朝の陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷五(王先謙編『清経解続編』巻1154所収)に指摘されている。
*2 拙稿「『魏略』の編者、魚豢の思想」(こちらの学術論文№41)を参照されたい。上述の、佞倖に対する批判の文章にも論及している。