曹植における『韓詩』の援用

こんばんは。

曹植の『詩経』解釈が多く韓詩に由来することは既に指摘されていますが、*1
「求自試表」(『文選』巻37)を読んでいて、またひとつ、そうした表現に出会いました。

今臣無徳可述、無功可紀、若此終年無益国朝、将挂風人彼己之譏。

今、私には述べるべき徳もなく、記すべき功績もないのに、
このようにして一生を終えるまで、国家王朝に何の寄与もしないならば、
きっと『詩経』国風の詩人が詠じた「彼己」の批判に抵触することになるでしょう。

「彼己」とは、曹風「侯人」にいう「彼己之子、不称其服(彼己の子、其の服に称はず)」で、
現行の『毛詩』では、「己」字を「其」に作っています。
同じ(近い)音を、「己」と「其」と、それぞれ別の文字で表記したものでしょう。

その趣旨は、曹植の引用を見る限りでは、現行の『毛詩』に同じだと見ることができます。
すなわち、その人の徳と、彼に対する待遇が釣り合わないという意味です。*2

この「彼己」という字が『韓詩』に基づくという推定は、
これまでにも何度か援用した陳喬樅の「韓詩遺説攷」六に見えます。*3
『後漢書』巻2・明帝紀の永平二年冬十月の詔にいう「詩刺彼己」とその李賢注が示され、
明帝は『韓詩』を学んだということが、『後漢書』巻29・郅惲伝等によって推定されています。*4
実に圧倒されるばかりの緻密な考証です。

さて、曹植が韓詩によって『詩経』を学んだ、そのことの意味は何でしょうか。
『詩経』を踏まえた曹植作品が、『韓詩』によって解釈されるべきだということはわかります。
では、曹植はなぜ『韓詩』に拠ったのでしょうか。
たまたまそれがそこにあったからなのか、選び取った結果なのか。
そこがわからない点です。

2020年11月27日

*1 伊藤正文『曹植(中国詩人選集3)』(岩波書店、1958年)p.22を参照。
*2『毛詩』鄭箋(鄭玄の『毛詩』解釈)に、「不称者、言徳薄而服尊(称はずとは、徳薄くして服尊きを言ふ)」とある。
*3 陳寿祺撰・陳喬樅述『三家詩遺説考』韓詩遺説攷六(王先謙編『清経解続編』巻1155)。
*4 陳喬樅の推定の根拠をかいつまんで紹介すると、『後漢書』郅惲伝に「及長、理『韓詩』『厳氏春秋』、明天文歴数(長ずるに及びて、『韓詩』『厳氏春秋』を理め、天文歴数に明るし)」、「(光武帝)後令惲授皇太子『韓詩』、侍講殿中(後に惲をして皇太子に『韓詩』を授け、殿中に侍講せしむ)」といい、この時、後の明帝はまだ皇太子ではなかったが、その永平三年の詔を見ると、彼が学んだのも『韓詩』であったと推定できる、と。