曹植に対する処遇

こんばんは。

魏王朝成立後の曹植が、常に不遇感を抱えていたことは、
彼の作品の随所から明らかに感じ取れます。

他方、特に明帝期に入ってからの魏王朝は、
曹植ら諸王に対して優遇政策を取っていたといいます。*

この食い違いをどう捉えたものか。

曹植の主観と、客観的事実との落差と捉えるのではなく、
魏王朝が曹植ら諸王に対して、物質的な面で手厚い待遇をする一方、
それと表裏一体で、彼らの軍事力を無化しようと図ったとは考えられないか。

そんなふうにふと思ったのは、
明帝の太和二年(228)に奉られた「求自試表」に、

窃位東藩、爵在上列、  位を東藩に窃(ぬす)み、爵は上列に在り、
身被軽煖、口厭百味、  身 軽煖を被り、口 百味を厭き、
目極華靡、耳倦絲竹者、 目 華靡を極め、耳 絲竹に倦むは、
爵重禄厚之所致也。   爵重く禄厚きの致す所なり。

とある一方、同じく明帝期に作られた、
「諫取諸国士息表」(『魏志』巻19・陳思王植伝裴注引『魏略』)に、
初めて東土に封ぜられ、魏王室の藩国となったとき、

所得兵百五十人、皆年在耳順、或不踰矩。
(得た兵士は百五十人、その年齢は六十歳、中には七十歳の者もいた。)

と述べ、非常に貧弱な軍事力しか与えられず、
藩国としての任務が果たせなかった無念さを訴えているからです。
こうした処遇は、文帝期のみならず、明帝期に至っても続いていたでしょう。

魏王朝にとって、
いつ独自の勢力を形成するか知れない諸王は、
常に警戒しておくべき不気味な存在であったのかもしれません。

ただ、王朝の中枢にいるはずの文帝や明帝は、
そうした意識を果たして強く持っていたのかどうかが不明です。

(以上、歴史学の専門家からすれば根拠薄弱な思い付き、あるいは、言うまでもないことだろうと思います。)

2022年6月29日

*落合悠紀「曹魏明帝による宗室重視政策の実態」(『東方学』第126輯、2013年7月)、津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)を参照。