曹植の三篇の哀辞

今日も、曹植の哀辞について続きです。
『曹集詮評』巻10に、「行女哀辞」に続けて収載されるのは、
曹丕の中子、曹喈の夭折を哀悼する「仲雍哀辞」です。

昨日示した摯虞『文章流別論』に、
「建安中、文帝・臨淄侯各失稚子」とあったのは、
これらの哀辞が捧げられた「仲雍」と「行女」を指すのではないでしょうか。

「行女哀辞」の序には、こうあります。

  行女生於季秋、而終於首夏。三年之中、二子頻喪。
   逝った娘は晩秋に生まれて初夏に亡くなった。
   三年間のうちに、二人の幼子が相次いで死んでしまった。

先行研究は、ここにいう「二子」を、
両者とも曹植の娘「金瓠」「行女」だと捉えています。*

けれども、夭折した二人の幼子を、
前掲『文章流別論』にいう曹丕・曹植の子と見ることも不可能ではありません。
兄の子を我が子と同等に見ることは、当時としては普通でしょう。

また、「金瓠哀辞」にいう「生十九旬而夭折」は、
前掲「行女哀辞」の序にいう「行女生於季秋、而終於首夏」と、
時間的な長さ(190日間)がほぼ一致します。

「行ける女」が「金瓠」であったという可能性は十分にあると考えます。

では、曹植はなぜ、同じ娘の死を重ねて悼んだのでしょうか。
思うに、二篇の哀辞は、その制作の立脚点が異なるのかもしれません。

「行女哀辞」と題する作品は、徐幹や劉楨にもあります。
そして、こちらには「金瓠哀辞」のように固有の名前は付せられていません。

他方、「金瓠哀辞」と「行女哀辞」とでは、
その言葉が放つ熱量にかなり落差があるように感じられます。
もっともこれはあくまでも印象であって、今はまだ断定はできません。

2023年4月27日

*たとえば、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.182、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.497、王巍『曹植集校注』(河北教育出版社、2013年)p.487、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社・中国社会科学院老年学者文庫、2016年)p.217は、いずれもこのように捉えている。