曹植の二篇の「薤露」ふたたび

昨日に続き、これも以前に言及したことがあるのですが
「相和」曲中の「薤露」に対して、曹植はふたつの歌辞を作成しています。

ひとつは「薤露行」、
もうひとつは、曹操「薤露」の第一句から楽府題を取った「惟漢行」。

「薤露行」の成立年代について、

趙幼文『曹植集校注』(人民出版社、1984年)は、明帝の太和年間の作と推定しています。
治世の才能を発揮する機会に恵まれない曹植が、文筆活動に注力しようと詠じている、
それは、文学創作を軽視していた青年期の彼から一転している(意訳)、というのがその根拠です。

古直(1885―1959)『曹子建詩箋』は、曹操在世中の建安年間と推定しています。
輔政への抱負、そして、それが叶えられない場合は著述で身を立てたいと詠ずる本詩の内容は、
彼の「与楊徳祖書」(『文選』巻42)と重なり合う、というのがその根拠です。
楊修(字は徳祖)は、曹植の腹心の友でしたが、建安24年(219)、曹操に殺されました。

これについて、私見としては建安年間と見る方に賛成です。
古直の論に付け加えるには根拠薄弱ですが、この詩はなにか明るいのです。

人居一世間   人が一世の間に身を置いて、
忽若風吹塵   あっという間に終わりを迎えることは、風に吹かれる塵のようだ。

という厭世的な内容の辞句にしても、表現としては漢魏の詩歌には常套的なものであって、
この時代の宴席に通奏低音として流れていた情感だと言えます。

句数が曹操の「薤露」と同じ16句で、同じメロディに合わせて作られた可能性もあります。
「薤露」の歌が宴席で歌われていたことは先にも述べたとおりです。

他方、「惟漢行」の成立年代については、
趙幼文、黄節(1873―1935)『曹子建詩註』は明帝期と推定しています。
(古直には特に言及がないようです。)
建安年間と見る評者もいますが、黄節がそれを非としていて、妥当だと私も思います。

というのは、「惟漢行」は、魏王朝に入ってから作られたことが明らかな曹植の作品と、
類似する表現を少なからず共有しているのです。

もし、「惟漢行」が「薤露行」の後に作られたのだとするならば、
曹植はなぜ、曹操の「薤露」に依拠する「惟漢行」を重ねて作ったのでしょうか。

このことについて、もう少し考察を続けたいと思います。

それではまた。

2019年12月13日