曹植の妻の死

こんばんは。

曹植は、26歳(建安22年)の頃より以降、
放恣なふるまいにより、父曹操の愛情を失っていったとされています。

ただ、曹植の作品から窺える彼は、情に厚い、誠実な人柄で、
それと、史書に記された放埓さとの間には、何か噛み合わないものを感じます。
人には様々な側面があると言ってしまえばそれでおしまいですが、
曹植本人の伝記資料のみを見ていては見えてこないこともあるでしょう。

それで、ふと目に留まったのが、
曹植の妻が、曹操に死を賜ったという記事です。
『魏志』巻12・崔琰伝の裴松之注に引く『世語』にこうあります。

植妻衣繍、太祖登台見之、以違制命、還家賜死。
 曹植の妻は、刺繍を施した衣服を着ていた。
 曹操は、高台に登ってこれを目にし、
 規律違反という理由で、家に帰して死を賜った。

『世語』は、『隋書』経籍志二、史部・雑伝類に、
「魏晋世語 十巻 晋襄陽令郭頒撰」として記されています。
歴史書としての出来はともかくとしても、
近い時代の人物による記録である点で無視できません。*

曹植の妻は、名士崔琰の兄の娘です。
崔琰は、曹植とそうした姻戚関係があったにも関わらず、
曹操からその後継者問題について問われた際に、
内密にすることもなく、長子を立てるべきだと進言した公平無私の人物です。
その崔琰でさえ、建安22年(216)、つまらぬ者の讒言で曹操から死を賜りました。

曹植にとって尊敬してやまぬ父曹操ではありましたが、
詩人としてひときわ鋭い感受性を持っていた彼が、
自らの父の残忍さに全く気づいていなかったと言えるかどうか。
それとも、「人を疑うことを知らぬ」(曹植「黄初六年令」)彼は、
父の人となりを信じ切っていたのでしょうか。

2022年8月23日

*興膳宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』(汲古書院、1995年)p.296を参照した。