曹植の孤絶

こんばんは。

曹植の「雑詩六首」其一(『文選』巻29)は、
多くの注釈者が、呉王である弟の曹彪を想っての作だと解釈しています。*

この種の、現実と詩の内容とを直結させる見方の中には、
すぐには賛同できないものも少なくありません。
しかし、こと本作品に関しては、私は躊躇なくこの見方に同意します。
その理由はこちらにも少し述べていますが、
(作品の本文、及び通釈、語釈についてはこちらをご覧ください。)
簡単に述べればこういうことです。

冒頭の1・2句目は、文帝期の曹魏王朝を強く想起させます。
続く3句目以降、遠い南方にいて、会いたくても会えない人への思いが詠じられます。
そうすると、この時期、南方にいた、曹植にとって大切な人としては、
呉王であった曹彪を措いて他には考えにくいのです。

このことを改めて確認して、
氷の塊を呑み込まされたような気持ちになりました。

別の時代であれば、文人たちの交友関係は広範に及ぶでしょう。
どんなに時代が厳しくても、心を通わせられる友人のひとりはいたでしょう。
ところが、魏王朝成立後の曹植は違います。

父が存命中であった建安年間は、
多くの才能豊かな文人たちと自由闊達な遊びを繰り広げていた彼ですが、
その友人たち(王粲・徐幹・陳琳・応瑒・劉楨)は、
建安22年(217)、流行り病によって一遍に亡くなります。

建安24年(219)には、曹植のよき理解者であった楊修が、
ほかならぬ父曹操によって殺されています。

更にその翌年(220)には、魏王として即位した兄の曹丕によって、
彼の腹心であった丁儀・丁廙が誅殺されています。

そして、同年(220)末に魏王朝が成立すると、
曹植をはじめ、文帝曹丕の弟たちはみな封土への赴任を命じられ、
兄弟間の相互交流は禁じられました。

少し時期が下りますが(その晩年に近い明帝期)、
曹植の「求通親親表」(『文選』巻37)にこうあります。

毎四節之会、塊然独処、
左右唯僕隷、所対惟妻子、
高談無所与陳、発義無所与展、
未嘗不聞楽而撫心、臨觴而歎息也。

季節ごとの会が催されるごとに、ぽつんとひとりでいる。
左右にいる者は下僕ばかりで、向かい合うのは妻子ばかりだ。
共に清談に興じる相手もなく、共に議論を展開させる相手もいない。
いつも音楽を聴いては胸を打ち、杯を前にしてはため息をつかないではいられない。

こうした孤絶の中で、
限られた親しい兄弟への思いが募るのは当然のことでした。

2022年2月1日

*後藤秋正「曹植「雑詩六首」論考」(『漢文学会会報』31、1972年)は、本詩を特定の人物と結びつけて解釈することには否定的な立場を取っている。