曹植の息子

こんばんは。

父の想念は、その子への対し方に現れ、
ひいてはその子自身のあり様に影響を及ぼすものなのでしょうか。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝によると、
曹植は、末っ子の曹志の才徳を見込んで自身の跡継ぎとしましたが、
長子を無条件に立てるということをしなかったのは、
もしかしたら、兄との不幸な確執が記憶に残っていたからかもしれません。

一方、文帝曹丕は長らく太子を立てず、
曹叡を疎んじ、曹霖を溺愛していたことは、以前こちらに書いたとおりです。

さて、曹植の跡を継いだ曹志は、
西晋の武帝司馬炎と面談して、その器を高く評価されましたが、
司馬炎がその同母弟の司馬攸を藩国に出そうとしたとき、
これを厳しい調子で諫めて武帝の怒りを買い、免官となっています。

安有如此之才、   どうして、このような才能、
       如此之親、   このように近しい親族でありながら、
而不得樹本助化、  王朝の根本を打ち立て、教化を助けるということができず、
而遠出海隅者乎。  遠く海辺の隈に出されるようなことがあってよいものか。

この慨嘆の言葉は、そのまま父曹植のことを指していると言ってもよいほどです。
(以上、前掲本伝裴松之注に引く『(曹)志別伝』より)

曹志のこの言動は、父曹植の無念と深く結びついているに違いありません。
曹志は多感な少年時代、父の渦巻く苦悩を目の当たりにしてきたのでしょうから。
しかも、彼の抑制のきいた日頃のふるまいから判断するに、
そうした憤懣はあらわにすべきではないと父から教えられてきたようにも察せられます。
それでもこうした局面に遭遇して、父への真情がほとばしり出たのでしょう。

なお、上記の司馬兄弟の悲劇の背後に、
先日来何度か言及している荀勗がいることは、以前こちらで述べた通りです。

2020年9月8日