曹植の無遠慮

こんばんは。

相変わらず遅々として進まない曹植「与楊徳祖書」の訳注ですが、
一句ずつでも毎日続けて読んでいると、面白い拾い物をすることがあります。
犬も歩けば棒に当たります。

今日は、次のような文章にたいそう驚かされました。

以孔璋之才、不閑於辞賦、而多自謂能与司馬長卿同風、譬画虎不成、反為狗也。
前有書嘲之、反作論、盛道僕讃其文。

思うに、陳琳の才能は、辞賦文学には習熟していない。
それなのに、ただ自分では司馬相如と同じ作風を持ち得ていると思っている。
これは、譬えるならば、虎を描いて成らず、かえって犬になってしまうようなものだ。
先に手紙でこれを嘲笑したところ、逆に評論をものして、僕が彼の文章を称賛したと喧伝した。

曹植は当時まだ二十代の、怖いもの知らずの若者です。
そして、この手紙文は、そんな彼が、敬愛する先輩文人の楊修に向かって、
自由闊達に思いのたけを述べたものです。

この無遠慮は、先に触れたこの逸話や、「贈丁儀王粲」詩などをも彷彿とさせます。

曹植は、当代に傑出する文人と目されることから、
なんとなく、人格的にも立派な文人というイメージがあるかもしれません。
また、その後半生、実の兄から冷遇されて長らく苦境にあったため、
悲劇的な側面が強調されがちであるようにも思われます。
ですが、それと表裏一体で、この口の悪い、才気ほとばしる若者がいるのです。
この曹植がいるからこそ、彼の文学作品は光り輝いているのだし、
その後半生の悲劇性も強いコントラストをもって浮かび上がるのでしょう。

自分が若かった頃を思い返すと、まるで人間ができていなかった。
(もちろん、今はできている、という意味ではありません。)

でも、建安年間の曹植作品を読んでいると、それも哄笑の内に肯定されるようです。
若者は愛すべき馬鹿者です。そうでなくてどうする、です。

2020年10月1日