曹植の筆の走り
こんばんは。
今日も曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)を読んでいて、
注釈者たちを困惑させている表現に出会いました。
それは次のような句です。
忍垢苟全、則犯詩人胡顔之譏。
恥を忍んでかりそめの生を全うしては、
詩人がいう「どの面下げて」のそしりを犯すことになる。
「詩人」といえば『詩経』の作者たちを言いますが、
五臣注(呂向)にも言うとおり、『詩経』の中に「胡顔」という語は見えません。*
一方、李善注は、この句に先んじて見える、次の句を指すのだと捉えています。
窃感相鼠之篇、無礼遄死之義。
ひそかに「相鼠」の詩篇にいう「無礼者は速やかに死すべし」の趣旨に感じ入る。
「相鼠」とは、『毛詩』鄘風の中の一篇で、その中に次のようにあります。
相鼠有体、人而無礼 鼠を相(み)るに体有り、人にして礼無し。
人而無礼、胡不遄死 人にして礼無くんば、胡(なん)ぞ遄(はや)く死せざる。
ただ、ここには「胡」はあっても「顔」はありません。
曹植は、「胡顔」という語が『詩経』の中に見えているかのように書いているのですが。
その齟齬を李善は当然わかっていて、
まず、『毛詩』鄘風「相鼠」の句を次のように解釈します。
『毛詩』謂何顔而不速死也。
『毛詩』は、どの面下げて(厚顔にも)速やかに死なないでいるのか、という意味だ。
こう述べた上で、時代は少し下るけれども、
殷仲文「解尚書表」(『文選』巻38)に見える、次のような用例を挙げ、
それが曹植のこの文章の「胡顔之譏」に由来するものだいうことを指摘しています。
臣亦胡顔之厚、可以顕居栄次。
小生はそれでもどの厚顔をぶらさげて、
栄誉ある地位にふんぞり返ることができましょうか。
「胡顔」という語は非常に用例の少ない言葉ではあるのですが、
顔之推の「観我生賦」(『北斉書』巻45・文苑伝)にも、次のとおり見えています。
小臣恥其独死、実有媿於胡顔。
小生はひとり死ぬということを恥じ、
実に、厚顔にも生き長らえることを恥じる思いがありました。
この顔之推が用いた「胡顔」は、明らかに曹植の前掲の辞句を踏まえた表現でしょう。
原典である曹植の言葉は、少し舌足らずなようにも、また些か拙速な感じもするのですが、
(以前に記した「求自試表」の文体とも通じるような感触を覚えます。)
それが後世では、ひとつの古典となっているのでしょうか。
2021年8月23日
*胡克家『文選考異』巻四に、これが三家詩のテキストであった可能性を指摘する。(2021年8月27日追記)