曹植の臨淄への赴任時期
こんばんは。
先に、こちらで提示した疑問について、
はやくも修正しなくてはならないことが出てきました。
それは、曹植の「請祭先王表」(07-26)にいう
「臣欲祭先王於北河之上」、及び「計先王崩来、未能半歳」に拠れば、
220年1月に曹操が亡くなって半年もたたない時期に、
曹植はすでに都を離れていることが知られる、という記述です。
この「都」とは、魏王朝の都・洛陽ではなく、魏王国の都・鄴でした。
(すでに当該ページでは修正済みです。)
すると、「北河之上」とは、鄴の付近をいうとはと考えられないでしょうか。
冀州に属する鄴は、たしかに黄河の北方に位置しています。
そして、220年の夏、鄴の付近で、亡き父曹操を祭りたい、と切望する曹植は、
必ずしも臨淄侯として当地に赴任していなければならないわけではない。
かの「請祭先王表」に、「羊豬牛臣自能辦、杏者臣県自有
(羊・豬・牛は臣自ら能く辦じ、杏は臣が県に自ら有り)」とあっても、
その土地にいる必要はなくて、侯として封ぜられている臨淄県から、
杏を調達できるというだけのこととも考えられます。
そう思い直して、振り返って見ると、
『三国志(魏志)』巻19・任城王曹彰の伝において、
「太祖崩(220年1月)、文帝即王位」と、黄初二年(221)の記事との間に、
「彰与諸侯就国」という記述があるからといって、
それが魏王国の時代(~220)のことだとは言い切れません。
後漢王朝から禅譲を受けて魏王朝が成立したのは220年10月のことですから、
その直後に、王朝の藩たるべく任地へ赴くことが求められたと見ることも十分可能です。
また、『魏志』巻19・陳思王植伝におけるこの間の記述は、
魏王曹丕による丁氏兄弟の誅殺の後に、曹植の臨淄への赴任が記されるという順番で、
何ら問題はないということになるかもしれません。
そして、「責躬詩」9・10行目にいう、魏王朝成立後に臨淄へ赴任したという内容は、
史実に即していると見ることができる(仮)ということです。
同じところを右往左往してばかりで、自分の脳力の乏しさが情けないですが、
思い違いをしていた可能性に気づけただけでもよかったです。
2022年1月7日