曹植をめぐる評価と罪状と

重ねて昨日の続きです。

鍾会は、高貴郷公曹髦を、才能は曹植と同等、武勇は曹操に類すると評しました。
魏王朝において、曹植はその父曹操と並んで評価が高いのですね。
先に述べたとおり(2019.07.15)、彼は「過去の過ちを悔いる人」であるにも関わらず。

こんなエピソードがあります。

曹植と曹丕との間で、父曹操の後継者が未決定であった時期、
曹植を強く推した丁儀らに、自分たちの仲間になるよう誘われた衛臻は、
その時には「大義」を以てきっぱりとこれを断っています。
ところが、曹丕が文帝として即位してからのこと、
その頃、父文帝に溺愛されていた東海王曹霖のことを暗に示しながら、
「平原侯(曹植)はどうかね。」と文帝に問われた衛臻は、
もっぱら曹植の徳を称賛して、曹霖については触れなかったといいます。
(『三国志』巻22・衛臻伝)

衛臻は、曹操の後継者として曹植を推すことはしませんでしたが、
彼の人徳は高く評価していたのですね。

曹丕は、父に愛される息子という点で、曹植と曹霖とを重ねたかったのでしょう。
(凡庸であるがゆえに、父に愛されなかった曹丕の寂しさが思われます。)

ちなみに、高貴郷公曹髦の父は、この曹霖です。
聡明なその子とは違って、粗暴低劣な男であったようです。(同巻20・武文世王公伝)

明帝曹叡(文帝曹丕の子、曹霖の異母兄弟)に関して、こんなエピソードもあります。

太和二年(228)、明帝(時に24歳)が行幸先の長安から洛陽に帰還するとき、
明帝が崩御し、群臣が雍丘王曹植(37歳)を迎えて擁立したとのうわさが立ちました。
卞太后(曹丕・曹植の母)はそのうわさの出所を突き止めようとしますが、
明帝は彼女(祖母)に対してこう返したといいます。
「天下の人々がみな言っているのだから、どうにも調べようがないですよ。」
(同巻3・明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)

明帝は、その母甄皇后が誅殺されたため、父文帝に疎んじられ、
太子に立てられたのも、文帝の最晩年でした。
こうした境遇が、あるべき健康な自尊心を傷つけたのか、
皇帝として、自分なんぞより、曹植の方がふさわしいと皆が思っている、
そのことは自分もよく承知している、と言わんばかりの科白です。

実際、曹植は、才と徳とを兼ね備えた、人望の厚い人物だと皆が認めていたのでしょう。
魏王朝に数々挙げられた罪状の空疎さがぽっかりと浮かび上がるようです。

それではまた。

2019年9月11日