曹植作品と漢代画像石

曹植の作品の中には、
漢代画像石との関わりを視野に入れてこそ理解が進むと思われるものが、
先週取り上げた諸々の画賛以外にもいくつかあります。
そのひとつが、楽府詩「当牆欲高行」(『楽府詩集』巻61)です。

龍欲升天須浮雲    龍が天に上ろうとするならば浮揚する雲が必要だし、
人之仕進待中人    人が官職を得ようとするならば有力な仲介者が必要だ。
衆口可以鑠金     衆人の口は金をも融かすと言うとおり、
讒言三至、慈母不親  讒言が三たびやってくれば、慈母も子から遠ざかる。
憤憤俗間、不辯偽真  紛々と乱れた俗世間の人々には、真偽を見分けることができない。
願欲披心自説陳    なんとか心の中を打ち明けて、自ら釈明したいと願っているが、
君門以九重      君主のいます宮殿の門は幾重にも閉ざされていて、
道遠河無津      道は遠く、河には渡し場がないという有様だ。

この楽府詩には、『楚辞』を踏まえた痕跡が随所に認められます。
(具体的には、こちらの学会発表№17の発表原稿p.5―6をご覧ください。)

そうした中で異彩を放っているのが、
第四・五句の「讒言三至、慈母不親」という表現です。

これは、孝行息子で知られる曾参とその母の故事を踏まえるもので、
文献資料としてしばしば挙げられるのは、次に示す『戦国策』秦策二の記事です。*1

昔者曾子処費、費人有与曾子同名族者而殺人、人告曾子之母、曾子之母曰、吾子不殺人。織自若。有頃、人又曰、曾参殺人。其母尚織自若也。頃之、一人又告之曰、曾参殺人。其母懼、投杼踰牆而走。夫以曾参之賢与母之信也、而三人疑之、則慈母不能信也。
昔、曾子が費にいたとき、費の人で曾子と族名が同じ者が人を殺した。人々は曾子の母にこのことを告げた。曾子の母は、「我が子は人殺しなどしません」と言って、それまでと変わりなく機織りを続けた。しばらくして、人がまた「曾参が人を殺した」と言った。その母はなおも平然と機織りをしていた。しばらくして、ある人がまた「曾参が人を殺した」と告げた。その母は恐れおののき、杼(ひ)を投げ出し、垣根を飛び越えて逃げた。そもそも曾参の賢明さとその母の深い信頼があっても、三人がこれを疑わせると、慈母でさえ信じることができなかったのだ。

ただ、ここには、曹植の詩にあった「讒言三至、慈母云々」という表現が見当たりません。
しかも、ここに見える曾参の母の故事は、実はそれ自体を中心的に取り上げて記すものではなく、
将軍甘茂が、秦の武王から信頼を勝ち取るために、たとえ話として持ち出したに過ぎません。

ところが、これとほとんど一致する辞句が、
山東嘉祥県武梁祠西壁の「曾母投杼」の図像の下に、「讒言三至、慈母投杼」と見えています。*2

以上のことは、どう解釈するのが妥当でしょうか。

まず、曾参母子の信頼関係をテーマに語られていた故事が古くからあったとして、
『戦国策』に記された甘茂のたとえ話はそれを用いたのでしょう。

このことは、この故事がよほど広く人々の間に知れ渡っていたのでなければ不可能です。
にも拘わらず、この故事そのものを中心に据えて記す文献は現存しないようです。
口承文芸は、一部の例外を除いては、基本こうしたものなのでしょう。

画像石の隅に刻まれた「讒言三至、慈母投杼」と、
曹植の楽府詩に見える「讒言三至、慈母不親」との近似性は、

語られていた同一の物語の断片が、それぞれに掬い上げられた結果ではないかと考えます。
(このことは前掲の学会発表で述べましたが、諸注釈書に指摘がないので、ここに示しました。)

それではまた。

2019年12月11日

*1 張道一『漢画故事』(重慶大学出版社、2006年)p.70―71を参照。
*2 張道一前掲書、及び長廣敏雄『漢代画象の研究』(中央公論美術出版、1965年)p.74を参照。