曹植文学への一視角

こんばんは。

昨日は、曹植「遠遊篇」のあまりにも自在な空間移動に唖然としましたが、
彼は鶏でさえ飛翔させているのです(こちらでも触れた「闘鶏」詩)。
これくらいのことは何でもなかったでしょう。

思えば、彼がよく歌っていたという「吁嗟篇」も、
「遠遊篇」に一脈通じるような大気のうねりを纏っています。
その本文と通釈を挙げれば次のとおりです。

吁嗟此転蓬  ああ、この転がってゆく蓬よ、
居世何独然  世の中に居るのに、どうしてお前だけがこうなのだ。
長去本根逝  長い間、もとの根を離れて行ったきり、
夙夜無休間  朝から晩まで、休む間もない。
東西経七陌  東西に、七本のあぜ道を通り過ぎ、
南北越九阡  南北に、九本のあぜ道を超えてゆく。
卒遇回風起  そこへ突然、つむじ風が起こるのに遭遇し、
吹我入雲間  私は雲の間に吹き入れられた。
自謂終天路  自分では天への道を終点まで行ったと思っていたら、
忽焉下沈淵  今度は唐突に、深い淵の底へ下される。
驚飆接我出  そこに突風が逆巻いて、私を迎えて連れ出して、
故帰彼中田  わざわざかの田畑の中に帰してくれた。
当南而更北  きっと南へ行くのだと思えば、更に北方へ赴かせられ、
謂東而反西  東かと思っていたら、逆に西へ向かうことになる。
宕宕当何依  あちらこちらと流浪して、いったい何を頼りにすればよいのだろう。
忽亡而復存  ふと亡びかけたかと思えば、また息を吹き返す。
飄颻周八沢  ひらひらと漂いつつ、八つの湖沼を巡り、
連翩歴五山  絶え間なく翼を動かして五つの山を歴遊する。
流転無恒処  流転を重ねて安住の地を持たない、
誰知吾苦艱  この私の苦しみを、誰が分かってくれようか。
願為中林草  できることならば林の中の草となり、
秋随野火燔  秋の日、野火に身をゆだねて焼かれてしまいたい。
糜滅豈不痛  焼けただれて消滅することに、痛みを感じないわけがないけれど、
願与根荄連  ただ願うのは、もとの根っこに連なりたいということなのだ。
(『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く。)

曹植は後半生(特に文帝期)、元来は身内である皇帝から、
転々と封地を移されるという仕打ちを受けました。
そうした境遇に投げ込まれた苦しみを詠ずる詩歌として、
私はこれまでこの作品を、半ば無意識的に解釈してきたように思います。
それは、作家の人生がまずあって、それを反映したものが作品であるとする、
ありふれたひとつの常識に囚われた見方です。

けれども、このように表現された内容から見るのではなく、
表現の体質というか、もっと深い基層を流れるある種の傾向のようなところから、
曹植文学の特質を捉えることができないだろうかと思いました。

2021年7月20日