曹植詩の浮揚感

こんばんは。

このところ、曹植の遊仙詩を少しずつ読み進めていて、
強く感じるのはその表現が発する浮揚感です。

たとえば、「仙人篇」にいう「駆風遊四海(風を駆りて四海に遊ぶ)」、
ごくありふれた表現のように見えますが、
「風」を車に見立て、それを「駆」って世界中を天がけるといった表現は、
現存する先秦漢魏晋南北朝詩では、他に見当たりません。

その「七哀詩」に見えていた、
「願為西南風、長逝入君懐(願はくは西南の風と為りて、長く逝きて君が懐に入らんことを)」にも、
前掲「仙人篇」の句と同質の、しなやかな能動性を感じます。

以前、曹植がその「闘鶏」詩の中で、
本来は飛ばないはずの鶏を飛翔させていることに言及しました。
この詩は、建安年間の作だとみてほぼ間違いありません。
すると、こうした資質はすでに二十代の頃からあったと言えるでしょう。

肌感覚で大気の浮揚を感じ取り、
天空に向けて思いを解き放つその詩想が、
ほんとうに曹植に固有のものだとは現時点では言い切れません。
ただ、今はその魅力に牽引されて、
彼の遊仙楽府詩を読み進めていこうと思います。

2021年6月18日