曹植集の刪定
昨日言及した曹植「前録自序」には、
自身の作品集の刪定について述べられていました。
このことについて、
清朝の姚振宗『隋書経籍志考証』(二十五史補編)は、
巻三十九之三、集部二之三、「魏陳思王曹植集三十巻」の項で、
「前録自序」の全文を引いた後に、次のような考証を付記しています。
今、その原文と通釈とを示します。
案伝注引典略、臨淄侯植与楊修書云、今往僕少小所著辞賦一通相与。修答書云、猥受顧賜、教使刊定。似即此前録、嘗以属楊修審定者。時為建安十九年、徙封臨淄之後事也。
案ずるに、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『典略』にこうある。臨淄侯曹植の「楊修に与うる書」(『文選』巻42)に「今、私が年少のころから著した辞賦一束をお送りいたします」といい、楊修からの返答の書簡「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)に「みだりに目を掛けていただき、文集の刪定を命ぜられました」とある。この「前録」は、かつて楊修に文集の修定を依託したもののようである。時に建安十九年、曹植が(平原侯から)臨淄侯に遷ってから後のことである。
たしかに姚振宗の指摘するとおり、
曹植「与楊徳祖書」と楊修「答臨淄侯牋」との往還の間には、
楊修によって、曹植の作品集の刪定が為されたらしきことが垣間見え、
そうして成ったものが、曹植の自序が伝わる「前録」なのだろうと納得されます。
「前録」とあれば「後録」もあったと思われますが、
もし、当時の別集が、後の『文選』等と同様な構成を取っていたならば、
「前録」に辞賦作品、「後録」に詩歌、文章が収載されていたのかもしれません。
姚振宗にこのような考察のあることを教えてくれたのは趙幼文ですが、*
趙幼文氏自身は、姚振宗の説に疑義を呈しています。
曹植は「前録自序」で、自ら作品の刪定を行ったと記しており、
それは必ずしも楊修とは関係がないし、史実を伝える根拠にも乏しい、
というのがその主な理由です。
そして、曹植が自ら目録を作成し、序文を書いたのは晩年に違いないとしています。
2025年10月29日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.435を参照。