曹氏兄弟対立の真相
こんばんは。
曹丕と曹植との関係について論及されている津田資久氏の論文から、*
自分が知らなかった、有益な資料を教えられました。
ひとつは、『太平御覧』巻241に引く「魏武令」にいう、
告子文、汝等悉為侯、而子桓独不封而為五官郎将、此是太子可知矣。
子文(曹彰)に告ぐ、汝等悉く侯為るに、
子桓(曹丕)は独り封ぜられずして五官郎将為り、此れ是れ太子なること知る可し。
もうひとつは、『初学記』巻10に引く『魏文帝集』にいう、
為太子時、北園及東閣講堂、並賦詩、命王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等同作。
太子為りし時、北園及び東閣の講堂にて、並びに詩を賦し、
王粲・劉楨・阮瑀・応瑒等に命じて同に作る。
先の「魏武令」からは、
曹丕が五官中郎将に任命されたのは、事実上、太子となったに等しいことが知られます。
それは、建安16年(211)のことでした。
次の曹丕の文章に見える阮瑀は、建安17年(212)に没しています。
すると、曹丕が「太子であった時」と言っているのは、建安16~17年であって、
建安22年(217)、彼が公的に太子に立てられて以降を指すのでないことは明らかです。
また、同じ津田論文の指摘によると、
曹丕と曹植との党派争いに言及する資料にはすべて、
曹丕は五官中郎将、曹植は臨菑侯という肩書で記されていることから、
両者の対立は、曹植が平原侯から臨菑侯に改封された建安19年(214)以降に特定される、
更に、『魏志』陳思王植伝裴注に引く『魏略』に、
一旦は丁儀が娶る話が出ていた曹操の娘を「公主」と称していることから、
その期間は、曹操が魏王となった建安21年5月以降のことと知られる、とあります。
なるほどそうだったのか、と納得しました。
もともと順当に曹丕が曹操の後を継ぐのが暗黙の了解となっていたところに、
丁儀・丁廙兄弟や楊修らが曹植の才能を称揚し、曹操の気持ちに揺らぎを生じさせた、
というのが真相に近いのでしょう。
結論は、これまでの定説とそれほど違いはないようにも見えますが、
ここまで精緻に史実を押さえた上での論究に、一段と深い理解を与えられました。
2020年9月23日
*津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年)。