東方への道とは

こんばんは。

昨日述べたことの続きです。

曹植「雑詩六首」其五に詠じられた出征への意欲は、
彼の「責躬詩」に詠じられたところと重なる、
つまり、贖罪としての出征志願である、
という推定を昨日述べましたが、
その一番の決め手は、「雑詩」其五の次の句です。

将騁万里途  これから万里の道を馳せていこう。
東路安足由  東方へ向かう道など行く価値はない。

この「東路」について、
私は当初、海沿いを江東(長江下流域)の呉に向かう道なのかと捉えていました。
ですが、そうすると、続く「安足由」という言い方と、呉への出征意欲とが矛盾します。
そこは、「東方を経由する道」ではない、別ルートで呉へ行くのだろうと空想していたのです。

したところが、黄節の次の指摘で目が覚めました。
黄初四年(223)の作である「贈白馬王彪」詩(『文選』巻24)に、
洛陽から任地の鄄城に帰国することを詠じて、
「怨彼東路長(彼の東路の長きを怨む)」とある、という指摘です。*

その前年の作である「洛神賦」(『文選』巻19)にも
「命僕夫而就駕、吾将帰乎東路(僕夫に命じて駕に就かしめ、吾は将に東路に帰らんとす)」と、
洛陽から封地の鄄城へ帰る道を指して「東路」と言っています。

こうみてくると、「雑詩」其五にいう「東路安足由」の意味はもう明らかでしょう。
本詩を単独で見ていたのでは、その真意へはたどり着けませんでした。

「雑詩」其五、「贈白馬王彪」詩、「責躬詩」は同時期の作で、
これらの作品を互いに照らし合わせながら読む必要があるということです。

2020年6月15日

*黄節『曹子建詩註』巻1を参照。