枯木と涸れ沢
『顔氏家訓』勉学篇に、次のような句があるのに遭遇しました。
学術を修めることもなく、腑抜けた生活をしていた南朝貴族の成れの果て、
西魏に滅ぼされた時の様子を描写したところです。
兀若枯木、泊若窮流、鹿独戎馬之間、転死溝壑之際。
枯木のようにぼんやりと、干上がった流れのように止まって、
軍馬の間をちょろちょろとした挙句、溝のふちに転落していった。
前に読んだ時は気づかなかったのですが、
この始めの方にある対句を見て、強い既視感を持ちました。
これは、明らかに陸機「文賦」(『文選』巻17)に見える次の表現、
兀若枯木、豁若涸流。
(兀たること枯木の若く、豁たること涸流の若し)
これを踏まえていること確実です。
そういえば、顔之推は兄の顔之儀とともに北朝に仕えました。
(北斉に出奔した之推と、西魏に留まった之儀とは、道を分かちましたが。)
北に赴いて出仕した南方出身の兄弟といえば、かの陸機・陸雲兄弟が思い浮かびます。
たとえば虞世南とその兄の世基のように(『旧唐書』巻72・虞世南伝)、
六朝期末、北朝に仕えた南朝出身の知識人で「二陸」に喩えられた人は少なくありません。
ですから、もしかしたら顔之推兄弟もそうなのか、と思いましたが、
正史などを調べてみたところでは、そのような記述は認められませんでした。
それに、南朝においても、優れた文人兄弟を「二陸」に喩える例があります。
(たとえば、『梁書』巻40・到漑伝に記された到漑・到洽兄弟)
また、顔之推は陸機のことを強く念頭において前掲のような表現をしたのだろうか、
とも思ったのですが、おそらくそうではないでしょう。
というのは、他ならぬ『顔氏家訓』に、冷徹な目で陸機を批評する部分がありますから。
たとえば、その文章篇には歴代の文人たちの至らなさが列記されていますが、
陸機も「犯順履険(順を犯し険を履む)」と酷評されています。
顔之推は特に陸機に心酔していたわけではなさそうです。
この時代、陸機の文学と生涯が人々の間に広く深く浸透していて、
そのような状況下で、顔之推も思わず陸機の表現を用いたということでしょう。
文脈も、陸機と顔之推とではまるで無関係です。
この点、陸機「文賦」の表現が、曹植「七啓」を用いたのとは異なります。
このことについては、こちらもあわせてご覧いただければ幸いです。
2025年5月30日