正史に五言詩が見えない理由

曹道衡「“蘇李詩”和五言文人詩的起源」(『文史知識』1988年第2期)を再読し、
改めて触発され、自分なりに調べなおして考えたことを記しておきます。

『史記』巻7・項羽本紀に、項羽が四面楚歌に追い込まれた場面を描いてこうあります。

於是項王乃悲歌忼慨、自爲詩曰、
  そこで項王は悲歌忼慨し、自ら次のような詩を作った。
力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝。
  「力は山を抜き、気は世を覆うほどなのに、時運に見放され、愛馬の騅は進まない。
騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。
  騅が進まないのをいったいどうしよう。虞よ虞よ、お前をどうしよう。」
歌数闋、美人和之。
  数回繰り返して歌い、虞美人がこれに和した。
項王泣数行下、左右皆泣、莫能仰視。
  項王は数行の涙を流し、左右の者たちも皆泣いて、誰も仰視できなかった。

ここに見えている項羽の詩歌は、○○○兮○○○という九歌型歌謡の様式を示しています。
九歌型歌謡とは、『楚辞』九歌に特徴的な句型を持つ歌謡であって、
前漢時代には、楽器の演奏を伴って盛んに歌われていました。*1
そして、これを記す文献は、しばしば芝居めいた文体をその前後に伴っています。*2

さて、『史記』本文には、虞美人が項羽の歌に続けて和した詩句が記されていません。
この部分には、唐の張守節『史記正義』が次のように注しています。

『楚漢春秋』云、「歌曰、漢兵已略地、四方楚歌声。大王意気尽、賤妾何聊生。」

 「漢軍はすでに楚の地を略奪し、四方から楚歌の声が聞こえてきます。
  大王様はすっかり意気消沈して、私は何をたよりに生き延びればよいのでしょう。」

前漢初期の陸賈が撰した『楚漢春秋』は、虞美人の歌をこう記していたのですね。

張守節が生きていた盛唐の時代、『楚漢春秋』は伝存していました。*3
彼が目睹した『楚漢春秋』には、たしかに虞美人のこの五言歌謡が記されていて、
それは、項羽の先の詩歌に続けて引用されていたのかもしれません。

『史記』は『楚漢春秋』を多く踏まえたといいますが(『漢書』巻62・司馬遷伝の賛)、
ではなぜ司馬遷は、虞美人の歌をこの書から採録しなかったのでしょうか。

同様なことは、『漢書』巻97下・外戚伝下(班倢伃)にも認められます。
趙飛燕姉妹のために後宮を退いた彼女が自らを傷んで作った賦は引かれていますが、
(そのうち「重ねて曰く」以下は九歌型歌謡の形を取っています。)
彼女が作ったと伝えられている五言の「怨歌行」(『文選』巻27所収)は見えません。

正史に引かれていないから偽作だと決めつける論者もいますが、
正史であるがゆえに引かれなかった可能性も大いにあるのではないでしょうか。
五言詩型は、漢代当時、まだ正統的な文学様式としては認められていなかったからです。
(詳しくは拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)をご覧いただければ幸いです。)

また、司馬遷『史記』は、女性に対して拒否的な態度を取っているとも見られます。*4

文献に記されて残っていないからといって、それが存在しなかったことにはならないし、
正史のような書物にばかり信頼を寄せるのも危いものだと思います。

それではまた。

2019年11月20日

*1 藤野岩友『巫系文学論(増補版)』(大学書房、1969年。初版は1951年)の「神舞劇文学」pp.168―172に指摘する。
*2 拙著『漢代五言詩歌史の研究』pp.109―114も併せて参照されたい。
*3 盛唐当時の図書目録を踏襲する『旧唐書』巻46・経籍志上には「楚漢春秋二十巻 陸賈撰」、宋代に成った『新唐書』巻58・藝文志二には「陸賈楚漢春秋九巻」とあって、後者の方が『隋書』巻33・経籍志二や『漢書』巻30・藝文志に記す巻や篇の数と一致している。『旧唐書』に著録するそれは、あるいは一時的に行われていた増補版だろうか。もしそうであるならば、上に述べたことは抜本的に考えなおさなくてはならない。
*4 宮崎市定「『史記』の中の女性」(岩波文庫『史記を語る』、岩波書店『宮崎市定全集24』に収載。初出は『信濃毎日新聞』1979年5月19日)を参照。