毒されていたかもしれない。

同僚の皆さんを観察していると、
(観察とは失礼、お許しください。)
研究者は、その研究対象が持つ価値観に、
多かれ少なかれ影響を受けているものだと感じます。

中国古典文学に長らく取り組んできた私にも、
自分では気づかないうちに染まっていた考え方があります。

それは、現実参加の志。
吉川幸次郎の言葉だったと思います。
自身が身を置く社会に対して、積極的に関わっていこうとする姿勢です。

私はここ十有余年、極めて真面目にこれを実践しようとしてきました。
その結果、大学が置かれた現実というものに負けた。
負けて、自分の生真面目さがよろしくなかったことに気づきました。
やっぱり人には向き不向きがあります。

先月、ふと気づいたら還暦を迎えていた私は、
これからは自分本位に生きるのだ、と気持ちを新たにしました。
かといって、以降、天然のわがままになるのかといえば、
それはたぶん違うだろうと思います。
一度は深く関わったこと、
それは自分の中に深く刻印されていくものでしょう。

中国古典を学ぶ者として自然に身についてしまった姿勢と、
現代の状況を生きていく上であらまほしき姿勢と、
交差する点はあると思います。

文学作品を通して追体験した古人の思いを、
今を生きる者として換骨奪胎すればどのようになるのか。
いわゆる研究なるものには直結しない問題ですが、
古典を学ぶ者として、こうした課題に時に思いを致しながら、
地道に、魏の曹植の作品を読んでいきます。

それではまた。

2019年6月19日