注釈が持つ時代性
昨日、古典の原典と、現代日本語による訳注とについて、
最近、前者のみならず、後者をも参照するようになったことを書きました。
ですが、日本語による訳注を参照しては誤る場合もあります。
それはこういうことです。
たとえば『文選』所収の作品を読むとしましょう。
初唐の李善による『文選』注は、作者が意識したであろう古典を指摘しているので、
李善注に従って本文を読解してゆけば、近いところまでたどりつけます。
ところが、李善が指摘する古典が難解すぎてよく読めない、
そこで、現代日本語による訳注を手掛かりに、李善注に示された古典を読解するとしましょう。
その場合、その現代の訳注が何に依拠しているかが問題となるのです。
たとえば儒教の経典のような古典中の古典には、歴代の学者が注釈を施しています。
そして、現代人による訳注が、そのいずれの時代の注釈に拠っているのか、
このことに注意する必要があると思うのです。
そうでなければ、その古典を踏まえた作品は、作者が思い描いた本来の姿を見せてはくれません。
たとえば、近世宋代の注釈に拠って古典を解釈し、
それに基づいて、その古典を踏まえた中世六朝期の作品を読み解くことは不可でしょう。
以上のことは、とても当たり前のことのように思われるかもしれません。
けれども、同質の誤りを無意識のうちに犯している場合もないではないと思います。
たとえば、李善注の少し後に出た『文選』五臣注。
その中には、もしかしたら唐人ならではの解釈かと思われるものも含まれています。
ですが、私たちはあまり深く考えず、それを参照して難解な本文を理解したりもしています。
(李善注に比べて、五臣注はわかりやすくかみ砕いて解釈してくれますから。)
本文に収斂していくことを旨とするはずの注釈でさえ、
その注釈者が生きた時代固有の価値観を帯びているものだと思います。
そのことに意識的でないと、作者自身が思い描いた表現世界から乖離してしまうでしょう。
もっとも、作品の解釈は読者の側にゆだねられているという考え方もあります。
私は、こと古典文学に関しては、まず対象に寄り添ってこそ面白くなるという考えです。
それではまた。
2020年3月18日