漢代「鼙舞歌」相互の連関性
昨日指摘したように、
曹植「霊芝篇」の内容や詩中での『詩経』の引用は、
『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の記述とよく重なります。
曹植の「鼙舞歌」が、漢代のそれを忠実になぞっているものと仮定して、
(なぜそう仮定できるのかについては、昨日の注をご覧ください。)
曹植「霊芝篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」は、
前掲『後漢書』に記された史実と深く関わっている可能性がありそうです。
このことに加えて、少し付記しておきたいことがあります。
それは、昨日取り上げた『後漢書』章帝八王伝(清河孝王慶)の中に、
曹植の別の「鼙舞歌」、「聖皇篇」を連想させる記事が見えていることです。
まず、和帝の詔(昨日引用)に示された次のような辞句です。
選懦之恩、知非国典、且復須留。
優柔不断な恩情は、国典に反すると分かっているが、まあしばらく逗留させよ。
これは、曹植「聖皇篇」に見える、次のような描写を彷彿とさせます。
侍臣省文奏 侍臣たちは、その文面を精査して上奏したけれども、
陛下体仁慈 陛下はもともと優しい人柄であるから、
沈吟有愛恋 骨肉への愛着からあれこれと考え込んでしまって、
不忍聴可之 大臣たちの上奏に耳を傾けてこれを許可するのに忍びない。
再び『後漢書』の記述に戻って、
和帝の兄弟たちは、上記の詔によって都での逗留が許されていたのでしたが、
和帝崩御の翌年(106)、「諸王は国に就く」こととなりました。
これには、強い既視感を覚えます。
曹植「聖皇篇」が基づいた漢代「鼙舞歌」の「章和二年中」、
その章和二年(88)に起こった出来事が、今またここで繰り返されているのです。
(詳細は、昨日の注をご覧ください。)
このようにみてくると、
漢代「鼙舞歌」の「殿前生桂樹」と「章和二年中」とは、
何か密接な繋がりを持っているのではないかと思えてなりません。
2024年12月18日