特異な表現とその来源
本日、曹植「雑詩六首」其三の訳注を見直しました。
その作業の中で思いついたことを記します。
実は、類似することをかつてこちらで述べたことがあるのですが、
その時に感じたことを正面から捉え直してみました。
この詩は、日本の多くの論者には典型的な閨怨詩と見えるでしょう。*
他方、黄節は本詩に詠われた夫を、呉に出征した曹丕になぞらえたものと捉えています。
これらの見方に対して、第三の方法があり得るのではないかと考えました。
それは、表現上、典型的な閨怨詩にしては突出した要素に目を留め、
そのような表現がなぜ生じたかを考えるという方途です。
本詩の場合、それは最後の四句です。
飛鳥繞樹翔 鳥が樹木の周りをぐるぐると飛翔しながら、
噭噭鳴索群 悲痛な鳴き声を上げて仲間を呼んでいます。
願為南流景 できることならば南へ流れる日の光となって、
馳光見我君 光輝を馳せて我が君にお会いしたいものです。
なぜ鳥は、つれあいではなく、仲間を呼んでいるのでしょうか。
思いを寄せる人のもとへ、なぜ光となって飛んでいきたいと詠ずるのでしょうか。
また、その向かう方角はなぜ南なのでしょうか。
これらは、典型的な閨怨詩としては必須ではない、突出した要素です。
これを、表現の多様性を打ちだそうとしたというふうに捉えるのではなく、
そうした表現を要請する現実が背後にあったと見るのです。
(その現実そのものは、直接的に詠じられているわけではありません。)
作者は現実と格闘する中でそれを言葉に託して表現しないではいられなかった。
表現の特異性、独創性は、その後について出てくるものであって、
はじめから作者はそれを狙ったわけではないのではないか。
少なくとも後半生の曹植についてはそう言えます。
このようなことを、思えば自分は繰り返し言っています。
進歩がないような気もしますが、らせん状に深化していると思うことにします。
(これも繰り返し言っているフレーズのような気がします。)
2026年1月4日
*たとえば、川合康三編訳『曹操・曹丕・曹植詩文選』(岩波文庫、2022年)p.323にそのような評が見える。