珍しい注釈態度の李善注
昨日述べたことについては、一旦保留としました。
そこまで厳密に考えなくてもよいのではないかという気がしてきて。
とはいえ、再読によって新たな気づきを得ることは少なくありません。
今日も、「上責躬応詔詩表」を読み直す中で、珍しいタイプの李善注に遭遇しました。
まず、その部分の本文は次のとおりです。
忍垢苟全、則犯詩人胡顔之譏。
恥を忍んでとりあえず命を全うすれば、
『詩経』の詩人が詠ずる「どの面下げて」のそしりにさらされることになる。
ここにいう「詩人胡顔之譏(詩人が胡顔の譏り)」は、
この上文にいう「相鼠之篇・無礼遄死之義」を受けて言っています。
すなわち、『毛詩(詩経)』鄘風「相鼠」にいう
「人而無礼、胡不遄死(人にして礼無くんば、胡ぞ遄(と)く死せざる)」がそれです。
ただし、『毛詩』には直接「胡顔」という語が見えているわけではありません。
そこで、李善はまず、「胡」は「何」と同義だと示した上で、
この『毛詩』を次のように解釈しています。
『毛詩』謂何顔而不速死也。
『毛詩』は、何という厚顔をさらして生き長らえているのか、という趣旨である。
こう述べた後に、李善は更に次のように続けます。
殷仲文表曰、亦胡顔之厚、義出於此。
殷仲文の表にいう「またなんという厚顔」は、語義がここに出自を持つ。
殷仲文は東晋の人で、その「解尚書表」は『文選』巻38所収。
李善が「胡顔」に対して、曹植よりも後の時代の作品を示して注したのはなぜでしょうか。
それは、「胡顔」という語の意味が不分明であったからに他なりません。
この語と『毛詩』鄘風「相鼠」との関連性を示すだけでは意味が十分に通らず、
なおかつ、曹植より前の時代の作品に、適切な用例が見い出せなかったからでしょう。
後世の表現を手掛かりに、そこから遡った時代の作品に見える語の意味を探る。
このような注釈の手法は、李善としては珍しいものだと言ってよいのではないでしょうか。
彼はいつも、典故や用例の提示によって作品解釈の道しるべを提供してくれますから。
ちなみに、殷仲文「解尚書表」の李善注には、曹植のこの文章への言及はありません。
2026年2月24日