現実と対峙する文学
こんにちは。
先日の授業で、柳宗元「送薛存義之任序」を読みました。
(こちらに原文と通釈を挙げておきます。)
下定雅弘氏がその著書に「逆境を生き抜いた美しき魂」*と題したように、
私もこの人物のあり様を非常に美しいと感じます。
ですから、いつも心を込めて話をします。
ただ、それが学生たちに届いたかどうか。
けれども、それは仕方がないのかもしれない、とふと思いました。
柳宗元は高級官僚です。
たとえ官界で挫折して左遷されてはいても、
彼には国家経営の一端を担っているという自覚があります。
だから、行政職に就いている人には、この文章はきっと響くだろうと思います。
けれども、私たち一般人、ましてまだ社会に出てすらいない学生たちにはどうでしょう。
彼は今どのような境遇にあるか、
当時の官界がどのような状況であったか、
これをもし自分の環境に置き換えてみるとしたらどういうことなのか。
そうした変換なくしては、心の底から彼の文学を理解することはできないと思います。
他方、これを挫折の文学という観点から読むことはできそうです。
(もっとも、その魂は損なわれておらず、むしろ磨かれていると感じますが)
その上で思うのは、中国文学は、現実社会と文学との対峙の歴史でもあるということです。
ではなぜ文学者はいつも不遇なのか。現実的に満たされた人物の文学はないのか。
ずっと心にひっかかっている疑問です。
2021年11月4日
*下定雅弘『柳宗元―逆境を生き抜いた美しき魂』(勉誠出版、2009年)