生きた言葉を掬い上げる
文学作品に語釈をつけていて、
意外と難しいと感じるのが、誰もが知る言葉、
たとえば「崑崙」とか「蓬莱」といった言葉に対する注釈です。
そんな時、頼りになるのが『文選』李善注です。
そして、『文選』李善注に当たるのにとても頼りになるのが、
斯波六郎主編『文選索引』です。
この索引のすごさは、
まず、熟語は項目を立てて提示されていること、
また、一句の中で、その字の占める位置が近似するものや、
句を構成する語の配列が似ているものは、近くにまとめられていることなどです。
要するに、個々の文字を、等質のデータとして処理するのではなく、
生きた言葉としてひとつひとつ丁寧に拾い上げているのです。
そして、そうやってたどり着いた李善注を見ると、
同じ熟語に対しても、それぞれの本文が持つ文脈に即した典故が示されています。
ここにもまた、言葉を血の通った生き物のように扱う手さばきが見えます。
若い頃、李善の記す「已見上文(すでに上文にみゆ)」に、
手を抜いているのかな、などと思っていたのが恥ずかしい限りです。
もし文脈が異なれば、それぞれにふさわしい注を付けるのが李善の流儀なのに。
そこで我に返って眼前の言葉を見るのですが、
どういう注釈を付けたものか、やっぱり明瞭な像を結びません。
李善注への道は遠いです。
斯波六郎先生もはるか彼方の偉人です。
もはや自分は彼らとは異なる世界の住人なのですから、
土台、まったく同じような仕事はできないと観念しています。
ただ、言葉を生きものとして扱うことだけは継承したいと志すのです。
2023年8月4日