用と無用との間

『荘子』山木篇にこうあります。

山中を行く荘子が、枝葉を盛んに繁茂させている大木に出会った。
木こりはその木を切ろうとしない。
理由を問えば、用いるべきところがないからだという。

無用であるがゆえにその天寿を全うできる木。
いかにも『荘子』らしい話です。

ところが、これに続くのは次のような話です。

荘子は山を出て、古い知り合いの家に投宿した。
知り合いは彼をもてなすため、鴈をしめて煮物を作ることにした。
鳴く鳥とそうでない鳥と、殺されたのは鳴けない鳥だった。

この二つの話は正反対の方向を向いています。
片や「不材」(用いるべき所が無い)であるがゆえに生き長らえ、
片や「不材」(鳴けない)であるために殺された。
このいずれの立場に立つのか、と弟子に問われた荘子の答えは、
「材と不材との間」でした。
ただし、それは本物ではないといいます。
これより先の次元には、大いなる道とともにある、
何者にもとらわれない在り様がたしかにあるのだというのです。

荘子は、絶対的自由の境地というものの存在を信じつつ、
現世の中で、営為と無為との間を揺れ動きつつ生きたのでしょうか。
ただ、荘子は「笑って」先のように答えたといいます。
そこに悲壮感というものは感じられません。

それではまた。

2019年10月4日