研究方法の流行り廃り

研究方法に流行り廃りもない、と私は思っているのですが、
どうも事実としてあるらしいと認めざるを得ないことに遭遇しました。

曹植に「浮萍篇」「種葛篇」という楽府詩があります。
この両作品は、かつて何度か言及しているとおり、典型的な閨怨詩です。

閨怨詩とは、夫と離別した女性の悲しみを詠ずる詩で、
漢代の宴席では、こうした内容を持つ五言詩や楽府詩が盛行しました。
そうした漢代宴席文芸の末裔である建安文壇でも同様であって、
曹植の作品もその系譜上に置いて理解できます。

けれども、そのような典型的な閨怨詩に、
兄弟の離別を重ね合わせているのが曹植の前掲作品です。
(詳細は、たとえばこちらをご覧ください。)

それは、読者側が想像力を働かせて創出した解釈ではなく、
その作品が表現上踏まえている『詩経』の意味を押さえることによって、
自ずから立ち現れてきたものなのです。

古典に基づくこうした典故表現について、
たとえば清朝の朱緒曾『曹集考異』、
黄節(1874―1935)の『曹子建詩註』、
古直(1885―1959)の『曹子建詩箋』には、
的確な内容の指摘が多く、しばしば重要な示唆を受けます。

けれども、最近の研究動向を見ると、
(特に現代中国では)こうした視点からの研究はあまり見かけません。*

古典に沿って小さな自分を措いて読んでいると、
作品は時として思いもよらなかった姿を現してくれます。
自分の予測を越えてくるそれに遭遇したときは身震いします。

たとえ流行っていなくても、
自分が本当に面白いと思う道を進むだけのことです。

2025年9月14日

*他方、台湾の曹海東『新訳曹子建集』は、上述の伝統的研究方法を継承しているように見受けられます。私もこちらに左袒する者です。