神仙へのスタンス
こんばんは。
神仙という、私たちから見ればおよそ現実離れした世界のものを、
昔の人々はどのようなスタンスで捉えていたのか、
このことが長らく謎でした。
たとえば、「古詩十九首」其十三(『文選』巻29)に、
「服食求神仙、多為薬所誤」
(服食して神仙を求むるも、多くは薬の誤る所と為る)とあっても、
この詩が成立した後漢時代以降も、神仙を詠じた詩は陸続と作られ続けています。
もしかしたらこういうことだろうか、という示唆を、
魏の嵆康(224―263)の「養生論」(『文選』巻53)から与えられました。
その冒頭近くに、次のようにあります。
夫神仙雖不目見、然記籍所載、前史所伝、較而論之、其有必矣。
そもそも神仙は目に見えないものではあるけれど、
書物に記されているところ、前代の史書に伝わっているところを比較して検討すれば、
それが存在することはたしかだと言える。
書物に記されているということ自体が、存在の確かな根拠となる、と言っています。
それが、この目で知覚できるものよりも優先するのです。
神仙に限らず、たとえば『捜神記』などで、
怪異な出来事を史書として記したりするのはこういうわけなのでしょう。
さて、嵆康は続けてこう言っています。
似特受異気、禀之自然、非積学所能致也。
(神仙は)特に他とは異なる気を受け、これを自然に授けられているのであって、
学問を積んで修得できるというものではないようである。
自身の常識を超えるものに対して、
これを拒絶するのではなく、凡人とは異なる特殊な存在なのだとして呑み込む。
この姿勢は、常識の埒外にあるものはすべて非合理だと退けるある種の現代科学よりも、
むしろよほど「科学的」ではないかとさえ思いました。
自分にとって未知のものに対してオープンでいるという点で。
(むろん科学的なるものを価値評価の基準にしているわけではありません。)
そう思った矢先、この後に次のような言葉が続きます。
至於導養得理、以尽性命、上獲千餘歳、下可数百年、可有之耳。
而世皆不精、故莫能得之。
養生の道を修めて理を体得し、それで寿命を全うして、
長くて千歳あまり、少なくとも数百年の寿命を得るということなら、これはあり得る。
だが、世間の人々はみな専心して励まないので、この長寿を獲得できるものがいないのだ。
こうなってくると、にわかに嵆康が遠い過去に遠ざかっていってしまいます。
それでも、時として清新な言葉がまっすぐこちらに向かってくる、
それを受け止めることができるのは、古典文学を読む醍醐味なのだと思います。
2021年7月14日