私は木こり
自分の考えを表明した後、たいてい「しまった」と思います。
考えは目の前にまるごと見えていたはずなのに、
言葉はいつもそこにたどりつけません。
いつも何かが足りない。
でも、発した言葉は、すでにもう私のものではないから、
(言葉は私と人との間にあるものなのだから、)
少し言い足りないくらいがちょうどよいのかもしれません。
欠損部分があればあるほど、そこに人が関わりやすくなるでしょう。
場違いなことを言ってしまったなあと恥ずかしくなるとき、
私は木こりだと思うことにしています。
『詩経』大雅「板」に、こう歌われています。
我言維服 私の言葉に、さあ耳を傾けておくれ。
勿以為笑 どうか笑いものにはしないでおくれ。
先民有言 昔の偉い人も言っているではないか。
詢于芻蕘 何かあれば、木こりにきいてみよと。
人間である以上、よほどの極悪非道でない限り、
どんな者にも汲むべき何らかの意見はあるだろうという考え方ですね。
自分を木こりだと思っていれば、何も恥ずかしくなることはありません。
それではまた。
2019年10月17日