素直でない遊仙詩
こんばんは。
本日読み始めた「遠遊篇」は、過日見た「遊仙」と違って、
仙界へ遊ぶということが、現実否定と分かちがたく結びついています。
そのことが顕著な句として、たとえば、
瓊蕊可療饑 美玉の蕊は、飢えを癒すことができる。
仰首吸朝霞 首を上方へ伸ばして、朝の霞を吸い込もう。
崑崙本吾宅 崑崙山はもともと私の住まいである。
中州非我家 中原の帝都など私が家ではない。
また、本詩の結びは次のとおりです。
金石固易弊 金石は元来が壊れやすいものだ。
日月同光華 私は(そんなものには拠らず)日月とともに光り輝きたい。
斉年与天地 天地と等しい永遠の歳月を渡ってゆくのだ。
万乗安足多 万乗の車を動かせる天子なんぞ、どうして見上げるに足るものか。
これらの表現は、
『楚辞』九章・渉江にいう次の句を中核に踏まえています。
登崑崙兮食玉英、与天地兮同寿、与日月兮同光。
崑崙に登りて玉英を食し、天地と寿を同じくし、日月と光を同じくす。
ただ、その直後にある、
「中州非我家(中州は我が家に非ず)」や、
「万乗安足多(万乗 安んぞ多とするに足らんや)」は、
曹植によって新たに付け加えられた言葉です。
そして、その付け加えられた言葉によって、
遊仙が、長寿を祈願するだけの遊仙には終わらなくなるのです。
このことは、すでに矢田博士氏によって論じられています。*1
加えて、こうした曹植の遊仙詩が、
阮籍「詠懐詩」と同じ構造を持つことを指摘しておきたいと思います。*2
2021年6月21日
*1 矢田博士「曹植の神仙楽府について―先行作品との異同を中心に―」(『中国詩文論叢』9号、1990年)を参照。
*2 このことは、すでに2020年12月1日の雑記に、先行研究とともに記しています。