繰り返し思う言葉

こんばんは。

顔之推(531―591頃)の『顔氏家訓』勉学篇にこうあります。

古之学者為己、以補不足也。  「古の学者は己の為にす」、以て不足を補ふなり。 
今之学者為人、但能説之也。  「今の学者は人の為にす」、但だ能く之を説くのみなり。
古之学者為人、行道以利世也。 古の学者の人の為にするは、道を行ひて以て世を利するなり。
今之学者為己、修身以求進也。 今の学者の己の為にするは、身を修めて以て進を求むるなり。

「古の学ぶ者は己の為めにし」、それで自身の足らない部分を補った。
「今の学ぶ者は人の為にし」、ただ人にうまく説いて聞かせることができるだけだ。
古の学ぶ者が人の為に学問をしたのは、正しき道を実践して世の人々に役立つためだ。
今の学ぶ者が己の為に学問をするのは、身を修めて出世を求めるためだ。

前半の二行では、
『論語』憲問篇にいう「古之学者為己、今之学者為人」をそのまま引用し、
それに対する顔之推自身の解釈を述べています。
続く二行で、今度は前半に引用した『論語』の句を一部ひっくり返して提示し、
それをまた、前の二句と同様なスタイルで解釈してみせています。

自身を充実させることと、それを人に披露してみせること。
学んで得たものを、人に喜んでもらうために使うことと、自己利益のために使うこと。
現代では、後者の方を重んずる人の方が声が大きかったりしますが、
それは、今に始まったことではなくて、顔之推の頃からして既にそうだったのですね。

苦労人でありながら、ユーモアにあふれたこの古人の言葉を、
近ごろ繰り返し思うことが増えました。

2020年10月7日