考証学者との距離

こんばんは。

先にこちらで言及した、
曹植「名都篇」に見える「寒」という調理法について、
黄節『漢魏楽府風箋』巻十五所収「名都篇」箋にも引かれている、
朱蘭坡『文選集釈(選学叢書)』巻十七「名都篇」を確認してみました。

『周礼』天官冢宰・漿人の鄭玄注に、「涼、今寒粥也(涼とは、今の寒粥なり)」といい、
同じく天官冢宰・膳夫の注で、「涼」と「䣼」とを通じて用いるテキストがあり、
『広雅』釈器に「酪・酨・䣼、漿也(酪・酨・䣼は、漿なり)」とある、
ということが指摘されています。

この一連の説明によると、「寒」は、冷製スープのようなものだと言えそうです。

朱蘭坡『文選集釈』には、その前の句の「臇」についても詳しい考証が見えています。

考証学者のこの細かさには、正直なところ、そこまでしなくてもと感じることも多いです。
様々な文献を渉猟した結果が、常識とそれほど大差なかったりする場合もあります。

ただ、現代風のいい加減な語釈をして大きな誤解をすることは、
こうした研究成果をきちんと踏まえることによって回避できるかもしれません。
なんにせよ、自分が一番ものを知らない人間であることはたしかなので、
これからも古人の著作から教わるという姿勢を持ち続けます。

ただ、古人だからといって、絶対視する必要はないとも思っています。
それは、今人の先行研究に対して、全面的に寄りかかることがないのと同じです。

2021年4月26日