自信に満ちた人々
こんばんは。
このところ、白居易の元稹に宛てた詩に見られる強い自信に圧倒されてきましたが、
これは彼にのみ認められることなのか、そうでもないかと立ち止まりました。
というのは、次のような文章があることを思い出したからです。
南朝梁の文人何遜が、衡山県侯蕭恭のために代作した恋文、
「為衡山侯与婦書(衡山侯の為に婦に与うる書)」(『藝文類聚』巻32)で、*1
その末尾にこうあります。
遅枉瓊瑶 遅(ま)つ、瓊瑶を枉(ま)げて、
慰其杼軸 其の杼軸をも慰めんことを。*2
私は、今や遅しと待ちわびております。あなたがお返事をくださって、
(私ばかりか)あなたのそのうつろな気持ちをも慰められますことを。
これを初めて読んだときには驚きました。
自分に返事を書くということが、相手の慰めにもなるはずだと言っているのですから。
そういえば、以前中国からの留学生に聞いたところでは、
古典文学では、あまり自己否定のようなことはしない(心当たりがない)、
近年の文化大革命を振り返って作られた傷痕文学はあるけれど、とのことでした。
まばゆいほど、自信に満ち溢れた人たちなのだなあと思ったことです。
ところで、今書いている論文(元白唱和詩)では、
ちょうどよい言葉が見つからないで頭を抱えるということがしばしばです。
脳内の筋力がまるで足りません。
こんなとき、自信に満ちた人々は、きっと自分は乗り越えてみせると思うのでしょう。
こんな自信ならば、自分にも持つことができるかもしれません。
2020年9月16日
*1 岡村繁「駢文」(『文学概論』大修館書店、中国文化叢書4、1967年)を参照。
*2 「瓊瑶」は、『詩経』衛風「木瓜」にいう「報之以瓊瑶(之に報ゆるに瓊瑶を以てせん)」を踏まえ、「報之」すなわちお返しをするという意味を表す。「杼軸」は、『詩経』小雅「大東」にいう「杼軸其空(杼軸、其れ空し)」を踏まえ、「其空」すなわち空虚だという意味を表す。詳細は、岡村前掲論文を参照されたい。