自分本位ということの中に
昨日、うまく言いおおせなかったことがあります。
“現実参加の志”と、自分本位ということの関係性です。
両者は、決して二項対立ではないのです。
往々にして、上記ふたつのことは、
滅私奉公と、個人主義、というふうに言い換えて捉えられがちです。
ですが、本来それは次元の異なる別物です。
今は社会が複雑すぎて一個人の力では動かしがたい現実がある。
だから、現実に背を向けて、個人の楽しみを追求しよう、
そんなふうに生きている人が多いかもしれない。
そして、個人の楽しみを追求するのが個人主義だと、
そう思っている人も多いでしょう。
そんな現代人の目から見ると、
“現実参加の志”をもって生きた(そして多くは敗れた)古人は、
よくわからない人たちだと感じられるでしょうね。
自分たちが大切にしている個人主義からは大きく外れる人たちだ、と。
彼らも、個人主義であったと私は思います。
個人主義の対義語は、全体主義であると捉えた上で。
彼らは、自分本位で、現実参加を志向したということです。
もっとも、それは儒家思想として、
深く彼らの精神基盤に組み込まれているのではありますが。
自分本位で考え、自身を大切にすることと、
周りの人たちに何らかのかたちで寄与しようとすることとは矛盾しない。
自分本位の中に、現実参加の志が含まれている。
そう考えることは、あるいは理想論に過ぎないのかもしれません。
それでもかつてこうした人々がいたことはたしかです。
それではまた。
2019年6月20日