至道を学べば

こんばんは。

昔のノートに、『礼記』学記篇に出る次のようなくだりを記していました。

雖有嘉肴弗食、不知其旨也。 ごちそうがあっても食べないのは、その旨さを知らないからだ。
雖有至道弗学、不知其善也。 すばらしき道があっても学ばないのは、その善さを知らないからだ。
是故学然後知不足、 だから、学んではじめて自身の不足がわかり、
  教然後知困、  教えてはじめて自身の至らなさがわかり、
  知不足、然後能自反也。 不足がわかってはじめて自分を顧みることができ、
  知困、 然後能自強也。 至らなさがわかってはじめて自分を補強することができる。

この中の一句を取ってその名に冠する、清朝の鮑廷博「知不足斎叢書」は、
日本の学術書、市河寛斎『全唐詩逸』や、太宰春台『古文孝経孔氏伝』等も収載している、
ということから興味を引かれ、その叢書名の出典を調べたようです。
(過去の自分はもはや別人です。ほとんど忘れていました。)

つい先日、中国古典の世界が持つ中華思想に辟易したところでしたが、
本当に真摯に学ぶ者は、そこを突破して広やかな知性に至ることができるのですね。

この叢書を編んだ鮑廷博は豪商で、私財をなげうって書物を収集したのだといいます。
学問は仕官のため、という中国知識人の類型からは外れていたのでしょうか。
もしそうなのだとしたら、そのことにも惹かれます。

2020年9月4日