若き日の傲慢さと繊細さ
先に書いた徐幹の没年について、
曹植の文章の中に参考になるものがありました。
『曹集詮評』巻9に収録する「説疫気」(『太平御覧』巻742)という文章がそれです。
以下、その全文を抄出し、通釈を示します。
建安二十二年、癘気流行、家家有僵尸之痛、室室有号泣之哀、或闔門而殪、或覆族而喪。或以為疫者、鬼神所作。夫罹此者、悉被褐茹藿之子、荊室蓬戸之人耳。若夫殿処鼎食之家、重貂累蓐之門、若是者鮮焉。此乃陰陽失位、寒暑錯時、是故生疫。而愚民懸符厭之、亦可笑。
建安二十二年(217)、疫病が流行し、あちらこちらの家々に、倒れた死体に取りすがって号泣する人々の姿があって、一門残らず死に絶えたり、一族もろとも亡くなったりするような場合もあった。ある者は、疫病は鬼神のしわざだと考えている。だが、そもそもこの病に罹る者はみな、粗末な衣を着て豆の葉を食べ、イバラや蓬でしつらえた家屋に住んでいるような貧しい人たちばかりである。一方、たとえば御殿に住んで多くの鼎を並べて食べ、貂の皮衣や敷物を重ねるような裕福な生活をしている家に、こうした病人はまれである。これは、陰陽がしかるべき位置を見失い、気候が異常な状態となったために、疫病が生じたのである。それなのに、愚かな民はお札を懸けてこれを追い払おうとしているのは、またなんと可笑しなことよ。
この書きぶりから見て、
王粲・陳琳・応瑒・劉楨らの命を一挙に奪った疫病は、
建安二十二年を超えることはなかったと判断してよいように思います。
徐幹の没年を、『中論』序文は建安二十三年と記していたのでしたが、
正しくは二十二年、このあやまりはおそらく伝写の過程で生じたものでしょう。
曹植がこの文章を書いたのは、建安二十二年当時だとして、時に二十六歳。
この年、彼は領邑五千を加増されていますが、
同じ頃、宮殿の司馬門を勝手に開いて外出し、曹操を激怒させています。(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
兄の曹丕が魏王の太子に立てられたのは、この年の10月でした。
さて、この文章において曹植は、疫病の広がり方と貧富の差との関係に目を留めています。
非常に繊細、かつ合理的な分析力でもって、民の苦しみに向き合っているのですね。
その一方、彼らを「愚民」と称し、その迷信的な疫病防止策を嘲笑しています。
繊細な才気をたたえた若者にありがちな、初々しい傲岸さを垣間見るようです。
それではまた。
2019年11月21日
※『中論』序文の著者と厳可均が推定する任嘏は、かつて臨菑侯曹植の庶子を務めていたことがあります。このことを示す資料を、先の11月5日のページに追記しました。