若者曹植の放埓

先に指摘した、二十代半ば(建安年間)の曹植の様子からすると、
その三十歳(黄初二年)の時、監国謁者潅均によって摘発された言動は事実であり、
潅均の文帝曹丕に対する阿諛によるものとばかりは言えないかもしれません。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王曹植伝にいう、
「酒に酔って放埓にふるまい、使者を脅しつけた(植酔酒悖慢、劫脅使者)」は、
それに類する言動が、建安年間のことを記した部分にも多々認められます。

たとえば、建安二十四年(219)、曹仁(曹操の従弟)が関羽に包囲されたとき、
曹操は曹仁救出のため、曹植を南中郎将・行征虜将軍に任命し、訓戒を与えようとしたが、
曹植は酔っぱらっていて、命を受けることができなかったという逸話。

この『三国志(魏志)』本伝の記述に関して、
裴松之注に引く『魏氏春秋』には次のようにあります。

  植将行、太子飲焉、偪而酔之。王召植、植不能受王命、故王怒也。
   植 将に行かんとして、太子(曹丕)焉(これ)に飲ましめ、偪(せま)りて之を酔はしむ。
   王(魏王・曹操)は植を召すも、植は王命を受くる能はず、故に王は怒るなり。

『魏氏春秋』(『隋書』経籍志・史部・古史類)は、
歴史家として定評のある孫盛(『晋書』巻82に伝あり)の著書であって、
口さがない連中のうわさ話を興味本位で集めたような「小説家」ではないでしょう。
それでも、この記述の前半、曹丕が曹植を陥れたことをいう逸話は、
その真偽を保留にしておくのが適切だろうと思います。*

曹植は生来、規範に沿ったふるまいを為すことが困難な人だったのかもしれません。
加えて、血気盛んな若者にとって、自律的な生活態度の保持は高いハードルだったでしょう。
二十代(建安年間)の曹植作品は、こうしたことを視野に入れて読む必要がある、
それなのに、彼が生身の若者であったことをつい忘れます。

2023年5月1日

*西晋時代には、初代皇帝である武帝司馬炎の、同母弟・司馬攸に対する冷遇事件が広く知られており、その関係性が曹丕と曹植とを想起させるため、歴史書等における曹氏兄弟の記述に歪みが生じたと指摘されている。津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』第84巻第4号、2003年3月)、津田資久「曹魏至親諸王攷―『魏志』陳思王植伝の再検討を中心として―」(『史朋』38号2005年12月)、矢田博士「曹植の「七哀」と晋楽所奏の「怨詩行」について―不可解な二箇所の改変を中心に―」(『松浦友久博士追悼記念中国古典文学論集』研文出版、2006年)を参照。