蛇行する思考

こんばんは。

一般に、曹植は魏王朝が成立して以降、ずっと不遇だったとされています。
たしかに、文帝曹丕、明帝曹叡の治世年間(曹植の年齢は29歳から41歳で没するまで)、
彼は王室の一員でありながら、王朝の運営に積極的に関わるということが許されませんでした。

ただ、同じく不遇とはいっても、
文帝期と明帝期とでは、彼の気持ちのあり様はかなり異なっていると窺われ、
その一例として挙げることができるのが、これまでにも何度か言及した「惟漢行」です。

この楽府詩に詠われたような、為政者に対する意欲的な訓戒は、
その言論が厳しく監視されていた文帝期には、およそ為し得ないものでした。
「惟漢行」は、文帝期から明帝期に移行して間もない時期に成った作品なのだと私は見ます。
このことは、かつてこちらでも述べました。

では、曹植は、兄の文帝曹丕や甥の明帝曹叡に対して、どんな思いを抱いていたのでしょうか。
自身を劣悪な環境に捨て置いたまま、力を発揮する場を与えない君主にして骨肉。
彼らのことを曹植は恨みに思っていたのでしょうか。

制作年は不明ながら、曹植は次のような「楽府歌」(『曹集詮評』巻5)を残しています。

膠漆至堅  膠(にかわ)と漆(うるし)とは、この上なく堅固に結びあうものだが、
浸之則離  これを水に浸したならば、両者は離れ離れになる。
皎皎素絲  真っ白に輝く、まだ染めていない絹糸も、
随染色移  染めるに従って色が移ってゆく。
君不我棄  貴方様が私を見捨てたのではなくて、
讒人所為  讒言した者のせいで私たちは引き裂かれたのだ。

「膠漆」「素絲」といった言葉から、捨てられた女性の怨みを詠じたものと見られますが、
それに仮託して、君主に容れられない苦しみを詠じているようにも読めます。

「君」が誰を指しているのかはわかりませんが、
もしこれが魏王室の皇帝(文帝か明帝)を言っているのだとすれば、
曹植は、自分と君主との間を、第三者の讒言が切り裂いたのだと捉えていたことになります。

すでに述べたこと、また、曹植研究においては常識的なことも一部に含んでいますが、
新しく巡り合った作品に言及しながら、少し振り返ってみました。

2021年3月3日