表現者の幸福

こんばんは。

曹植の作品を読みながらふと思いました。
彼は、特にその後半生、あまり報われることのなかった人ですが、
表現者としては、実はとても幸福な人だったのではないか、
自分はそれを確認したくて彼の文学に取り組んでいるのでないかということです。

まず、言葉によって自身の思いを表現している間は、
現実とは別の次元で、とても充実した幸福感を味わっていたはずだと思います。

それに、こうも考えます。

曹植の作品は、その死後、多くの人々に読まれ、その表現が継承されました。
近い時代では、『魏略』の撰者魚豢、竹林七賢の阮籍、嵆康、西晋の陸機、潘岳らです。
彼は後の時代の人々にたくさんの贈り物をしたのです。

本人はすでにこの世にはいないのだから、無意味だという考え方もあるけれど、
どこかで彼は、そのことを喜んでいるように思えてなりません。

見知らぬ他者に手渡される言葉を生み出した者こそが、真の文学者だと私は考えます。
そして、その「文学」というものの成立を、
曹植の表現の上にたしかに跡付けたいという研究の趣旨を自分は掲げています。

ですが、実は、曹植の上述のような表現者としての幸福を見届けたい、
それによって彼を弔いたいのだと思います。
(たいへん不遜な物言いですが、思うのは自由ですから。)

2020年12月7日