西晋宮廷歌曲群「大曲」の位置

これまで、ここで何度か考究を試みたことのある、(直近ではこちら
西晋王朝の宮廷歌曲「清商三調」と「大曲」との関係について、
現時点での見解をまとめる作業に入ろうと考えています。

以前、「相和」と「清商三調」との違いを明らかにしたことがあります。*1
そこでは、主に「相和」の輪郭を描き出すことに力点を置きました。
そして、魏晋の宮廷音楽の実態を知る上で最善の資料は、
北宋末に郭茂倩が編纂した『楽府詩集』よりも、
南朝梁の初め頃に成った沈約『宋書』楽志であることを示しました。

この『宋書』楽志三において、
「相和」の諸歌辞が示された後に続くのが「清商三調」で、
その下に、次のような説明が付せられています。

  荀勗撰旧詞施用者。
   荀勗が旧詞[漢魏の歌辞]から選り抜いて(宮廷歌曲に)用いたものである。

続けて、「清商三調」の諸歌辞が「平調」「清調」「瑟調」に分けて列記され、
その後に示されるのが「大曲」十五篇、及び「楚調」一篇です。

この「清商三調」と「大曲」との狭間には、本質的に峻別すべき段差があるのか、
それとも、たとえば「平調」と「清調」との違い程度に過ぎないのか。

『宋書』楽志三所収の「大曲」はすべて、
南朝の王僧虔「技録」に「瑟調」として記されているものです。
こちらをあわせてご覧ください。)

この「大曲」の歌辞群に続くのは「楚調」で、
「楚調」は南朝において、平・清・瑟の「清商三調」に連なると目されていたようです。
『文選』巻28、謝霊運「会吟行」の李善注に引く沈約『宋書』にこうあります。

  第一平調、第二清調、第三瑟調、第四楚調、第五側調。然今三調、蓋清平側也。
   第一に平調、第二に清調、第三に瑟調、第四に楚調、第五に側調である。
   しかし今でいう三調とは、おそらく清調・平調・側調であろう。

沈約が「三調」をこのように捉えていた根拠は不明ですが、
当時、平・清・瑟・楚・側の五調が同系統と見られていたことは確かと言えるでしょう。

そうしてみると、「大曲」は「清商三調」の瑟調に連続的につながり、
更に「大曲」は、続く楚調「怨詩行」に無理なくつながることになります。
つまり、『宋書』楽志三所収の「清商三調」「大曲」「楚調」はすべて、
西晋王朝においては一連の歌曲群として扱われていたのであり、
だとすると、その編者は、
『宋書』楽志三に「清商三調」の編者として記される西晋の荀勗であろう、
とかつては考えていました。*2

ただ、この推測はどうにも荀勗の為人と重なりません。
(この疑念については、拙論*2でも触れました。)
それで、この問題を考え直す必要があると感じてきたのです。

2023年5月2日

*1 拙著『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年2月)第五章第一節・第二節を参照されたい。この節のもとになったのは、「『宋書』楽志と『楽府詩集』―その「相和」「清商三調」の分類を巡って―」(『広島女子大学国際文化学部紀要』第11号、2003年2月)、「魏朝における「相和」「清商三調」の違いについて」(『九州中国学会報』第41巻、2003年5月)。
*2 拙論「晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―」(『狩野直禎先生追悼三国志論集』汲古書院、2019年9月)に、このように推論した。