言葉の授受ということ
人の言葉を用いるとはどういうことなのか、
かなり長い間考え続けています。
中国古典文学には、典故表現というものがあります。
誰もが知る古典籍の言葉や故事を、自らの作品に織り込んで、
自身の表現世界に重層的な奥行きを持たせる、
古典文学には普遍的な表現技法。
ですが、言葉の受け渡しという現象には、
まだ他にも様々な局面があります。
たとえば、共有する場で、遊戯的に交わされる類似句の応酬。
あるいは、ある言葉を、その元来の文脈とは無関係に、
出会いがしらに捉えて取り込んだかと思われる阮籍「詠懐詩」の例もある。
一方的ながら、自分に向けられたかと直感する言葉ってあるでしょう。
でも、まだ他にあるように思うのです。
たとえば、魏の曹植の作品が、近い時代の後人に及ぼした影響です。
(典故表現ではないし、上記の例からも外れます。)
曹植は、死後に名誉回復し、その作品が公開されることとなりましたが、
明らかに曹植の作品を踏まえていると見られる表現が、
非常に近い時代の詩人たちに認められるのです。
それは、曹植に対して寄せる思いがあればこそでしょう。
文学作品における影響関係には、その根底に敬意と共感があると考えます。
そんなことを念頭に置きつつ新しい研究に着手したところです。
それではまた。
2019年6月14日