言葉を共有するということ

こんばんは。

昨日一昨日と、「場を共有する言葉」と題して書き留めたこと、
その当否はひとまず置いておきますが、
これをきっかけに、次のようなことを思いました。

作品中に同じ言葉が見えるということについて、

中国古典文学に頻見するのは、
古典的な言葉や故事を自作品に織り込む、いわゆる典故表現です。

そうではなくて、同時代あるいは先行する時代における用例の場合もあります。

また、比較的近い時代の人が、敬意から先人の言葉を引用する場合もあります。
たとえば、曹植作品に特徴的な表現が、魏晋の人々に摂取されているのがその例です。*

更に、場を共有するが故に表現が相互浸潤したケースです。

このように、言葉が受け渡されてゆく有様は、決して一様ではないように思います。

そこで、ふと想起したのが、
『春秋左氏伝』襄公二十五年に記された、次のような孔子の言葉です。

言之無文、行而不遠。
  言葉を発するのに美を伴わなかったら、それは遠くまで届かない。

場を共有する言葉は、実は言葉の最も原初的な姿かもしれません。

尊敬する先人の言葉や古典語・故事を用いる、
すなわち、言葉をかたちづくる、美を備えるということは、
時空を超えて、ある思いや文化を共有するということなのだと思いました。

2021年11月17日

*先行研究として、富永一登『『文選』李善注の活用 文学言語の創作と継承』(研文出版、2017年)第一章第四節「注引曹植詩文から見た文学言語の創作と継承」に詳しい事例が挙げられている。