訳注という営為

こんばんは。

授業の開始が二週間遅れとなったのを幸い、
今日も一日、曹植作品(「贈徐幹」詩)の訳注作業に没頭していました。
(たぶん明日には公開できるかと思います。)

この作品は、ここでも何度か取り上げたことがあるのですが、
改めて訳注稿を作成していると、新たに気づかされることも出てきました。

訳注という営為は、自分を無くして、対象に没入するものだと私は思っています。

ところが、この作品については曹植のガードが固くて、なかなか懐を開いてもらえません。
相手に没入して、ほとんど当人になったような状態で訳するということができない。
そうなると、自分の予断等は捨て去った上で、相手と対話することになります。

典故の指摘を旨とする李善でさえ、語句をかみ砕くような解釈を付けているほどです。
それほど分かりにくい作品なのだということでしょう。

でも、面白いことに、こうなっては李善の解釈も、これに柔順に従う必要はなくなります。
典故の指摘については、いつもと同じくありがたく教えていただきますが、
それでも中には疑問を感じる指摘がないではなかったりします。

先行する注釈を介さずに、直に曹植と向き合うのは、
苦しいけれど、ものすごく面白いです。

それではまた。

2020年4月9日