訳注をめぐる雑感

こんばんは。

昨日から、「贈丁儀王粲」詩の訳注に入りましたが、
これもまた困難なことの多い作業です。

まず、成立年代について諸説紛々たる状態であること。
作品世界と現実とを直結させる必要はない、
とは言い切れないのが、この時代の贈答詩です。
生身の人間どうし、リアルに言葉をやり取りしているわけですから。

そうした点で理解に苦しむのは、
曹植の丁儀・王粲に対するものの言い方がかなりぞんざいなこと。
このことについては、先にも先行研究を紹介しました

曹植の詩については、すでに伊藤正文氏の訳注がありますし、
『文選』所収のものなどについては充実した先行研究が多数あります。
それでも、自分で語釈を付け、通釈をしていると、様々な気づきが生まれます。

ところで、
語釈は、簡潔で、要を得たものが最上、
(だから、何を削り、どう圧縮するかで非常に頭を絞ります。)
通釈は、何も足さない、何も引かないのが理想です。
(といっても、言葉の構造上、どうしても逐語的直訳ができない場合もありますが。)

そんな訳注という仕事には、
その人が日頃どれほど努力を重ねているかが歴然と現れる、
と、岡村先生はおしゃっていました。
肝に銘じます。

2020年4月15日