詩人の言葉の肌触り

このところ、曹丕の悪行をずいぶん書き立ててきましたが、
元来この人は、ただ器が小さいというだけだったのだろうと思います。
そんな小人物が、人の上に立つことになったのが魏王朝の不幸のひとつだったと言えるでしょう。
このことを付記しておこうと思ったら、もうすでにそうした趣旨のことを書いていました。
螺旋を描くことができなくて、同じところをぐるぐるしているこの頃です。

曹丕の詩歌には、人口に膾炙する既存の言葉が散見します。
たとえば、『文選』巻27所収の「燕歌行」など、その顕著なものでしょう。
なにかこう、自身の中に言葉を紡ぎあげる統合力のようなものが強く働いていない。
だから、手垢のついた言葉の切り貼りになってしまっているのですね。
(偉そうに人の評価などして恥ずかしい限りですが。)

岡村繁「建安文壇への視角」(『中国中世文学研究』第5号、1966年)は、
曹丕の手紙文の中に、時としてその文章力の底を露呈させる拙さが見えることを指摘しています。

私にはまだ、作品の言葉の肌触りから何かをつかむことができるほどの力がありません。
ある時、岡村先生は、西晋の陸機の詩文は非常に美しいのだとおっしゃった。
自分もいつか、それが本当に感じ取れるようになりたいと希求しつつ、未だ果たせていません。

それではまた。

2020年1月17日