語気助詞の「当」と「将」

こんばんは。

以前、白居易や杜甫の詩に訳注を付けていた時、
その口語的な表現の語義については、
入矢義高監修・古賀英彦編著『禅語辞典』(思文閣出版、1991年)をよく参照しました。

この書物に教えられ、また何度か唐詩の中に事例を見た言葉のひとつに、
「当」「当復」があります。*
「まさに……すべし」とは読まず、「はた」と読む、
「さて」「いったい」といった訳がふさわしい、これといった語義を持たない語気助詞です。

この語は、禅語や唐詩より前、漢魏詩にも少なからず用いられていて、
たとえば次のような事例を挙げることができます。

・古楽府・本辞「西門行」(『楽府詩集』巻37):何能愁怫鬱、当復待来茲。
  (なんだって鬱々と心配して、いったい来年まで待っていられるものか。)
・阮瑀詩(『藝文類聚』巻27):鶏鳴当何時、朝晨尚未央。
  (一番鳥の鳴くのはいったい何時か、夜明けはまだだ。)
・曹操「秋胡行」(『宋書』巻21・楽志三):晨上散関山、此道当何難。
  (夜明けに散関山に上る、この道のまたなんと難儀なことか。)
・曹操「歩出夏門行(碣石)」(『宋書』楽志三):心意懐游豫、不知当復何従。
  (心に遊覧を思いつつ、さていったいいずれに従っていこうか。)
・甄皇后「塘上行」(『玉台新詠』巻2):念与君一共離別、亦当何時共坐復相対。
  (あなたとの別れを繰り返し思う。いったいいつ共に坐って対面できるだろうか。)

比較的多くの作品を残している曹植にももちろん用例が見出せます。
すでに訳注を公開している作品では、「七哀詩」にいう「君懐良不開、賤妾当何依」、
それに基づく晋楽所奏「怨詩行」には、「沈浮各異路、会合当何諧」という句も見えます。
また、こちらで紹介した「吁嗟篇」にも「宕宕当何依、忽亡而復存」とあり、
「種葛篇」にも「出門当何顧、徘徊歩北林)」とあります。
(滞っておりますが、これらの作品についてもいずれ訳注を公開します。)

ところで、もしかしたらこの「当」と近いのではないかと思われる語として、
「将」を挙げることができるかもしれません。

前掲の曹植「七哀詩」にいう「賤妾当何依」が、
『藝文類聚』巻32所収テキストでは、「妾心将何依」となっていて、
「当」と「将」とが極めて近しい役割を果たしているらしいことが推し測られます。

また、すでに訳注を付けた作品では、「贈白馬王彪」詩にいう、
「鬱紆将何念、親愛在離居」、
「太息将何為、天命与我違」、
「離別永無会、執手将何時」の「将」も、これに該当するかもしれません。
特に二つ目に挙げた「太息将何為」は、『魏志』巻19・陳思王植伝は「歎息亦何為」に作り、
「将」に「まさに……せんとす」の意味はほとんどないことを示唆しています。

2021年10月16日

*この項の初出は、古賀英彦「禅語録を読むための基本語彙初稿」(『禅学研究』64、1985年、花園大学)。