語注という作品解釈
前期の授業もやっと最終週です。
様々な仕事が重なって、曹植作品を読む時間が取りづらい日々ですが、
一旦途切れてしまうと再開にエネルギーが必要になるので、
何もしないよりはまし、
ということで、今朝もひとつだけノートに語釈を書き付けました。
それはさておき。
語釈に際しては、黄節の『曹子建詩註』にいつも多くのことを教えられます。
ですが、それのみに依拠するのは危うい、ということに本日改めて気付かされました。
元旦の宴席風景を描写した「元会」詩の次の句、
清酤盈爵 清らかな一夜造りの酒が杯を満たし、
中坐騰光 一座の人々は輝きを発する。
この中の「騰光」という語に対して、黄節は、
『楚辞』招魂にいう「蛾眉曼睩、目騰光些」を踏まえる可能性を指摘します。
『楚辞』における「騰光」とは、
細長い弓なりの眉のもと、うるんだ瞳で流し目をする、そんな美女の目が放つ光輝です。
そうした言葉を、曹植は宴席の高揚した雰囲気を描写するのに用いている、
と黄節は指摘しているのです。
この語釈を見たときは、思わず膝を打ちました。
曹植の他の詩でも、同質の事例があったことを思い出したからです。
ですが、『佩文韻府』などで用例に当たってみたところ、
「騰光」は、『楚辞』を経由せずとも、わりと普通に用いられている言葉のようでした。
振り出しに戻って考え直さないと。
語釈は、必ずしもすべてが、誰の目から見ても的確というものばかりでもなくて、
注釈の有り様には、その人ならではの読みが顕れる、
だから、先人の注を妄信するのではなく、先輩注釈者と対話しながら作品を読んでいく、
そのような付き合い方をすればよいのだな、と思ったことです。
それではまた。
2019年7月29日