論者も現実と向き合う
こんにちは。
安藤信廣『中国文学の歴史』(東方書店、2021年)のまえがきにこうあります。
それぞれの作者は過去の文学的蓄積の上に立ちながらも、
あくまでも自身の現在の課題に向き合っている。
この言葉に、私は非常に深く共感しました。
文学の歴史に論及する論著の中には、
まるで、作者たちはその文学ジャンルを豊かにするために参集した、
というような観点から、それぞれの作家や作品を論じるものが散見します。
けれども、少なくともその作品が誕生したそのとき、
作者自身には、斯界の繁栄に寄与する、といった意図はないのではないでしょうか。
それを、はるかな後世から俯瞰してみれば、
結果として、その作品は、その文学ジャンルに新風を吹き込んだことになるのでしょう。
けれど、私自身は、そうした視点は取りたくないのです。身の丈に合わないから。
(もちろんそうした大局観から説く研究を否定するものではありません。)
以前、こちらでも述べましたが、
私は昔、大江千里の「句題和歌」について論じたことがあります。
そのとき、多くの先行研究が上述のようなスタンスを取り、
千里の「句題和歌」を稚拙であると評価していたことに義憤を感じたものです。
彼は「句題和歌」という新様式を創って和歌文学界に新風を起こそうとしたのではなく、
自分自身を苦境から救い出すために作り出したのが「句題和歌」だった。
そこにきちんと目を止めたいと思ったのです。
なぜそんなことを思ったのか。
それは、大江千里研究が私自身を救うことでもあったからだと思い至ります。
研究者も、完全に客観的な神の視点から論じ得るわけではない、
それぞれが直面している現実があって、それと向き合いつつ論じているのだと思う。
このことは、対象を好き勝手に自分に引き付けて論じることとは違います。
2021年11月12日